昭和49年04月22日 朝の御理解



 御神訓 一、「天が下に他人と云う事は無きものぞ。」

 天地の親神様のお心としては、やっぱりそうでありましょうと思う。天地をお守り下さる。特に、せめて地球上なら地球上にある人間氏子を全部同胞、はらからとして、ご覧になっておる。と云う事はどう云う事かと言うと、「他人と云う者のは無いのだから、お互いが親身になり合えよ」と云う事じゃないでしょうか。言うならば、「仲良う行けよ」と云う事じゃないでしょうか。「天が下に他人と云う者はないのだから、皆んな内々だから、仲良うして行けよ」と云う事だと思う。
 ですから、是をまずは自分の心の中から、自分の家庭の中から、それは親身であっても、親子であっても、夫婦であっても、仲の悪いのがある、そう云う人達が例えばこう云う御教えを頂いても、何にもならんと思うです。他人ではないもの同志が仲が悪い。夫婦と言やぁ、他人です。他人が一つになって言わば内々になる訳です。ですから親身な事が言わば、「妻は夫をいたわりつ、夫は妻を慕いつつ」と云う様な風になって来るんです。他人でもやはり夫婦になれば身内になる。内々になる。
 是はあなただけ、と言った様なものを出し合うて行くからだと思うです。今朝から私はお夢を頂いた。私は毎晩夜中に一遍通り、回廊を回るんです。良くその電気が点けっ放してあったり、表のドアが開いたままになったりしてるから、何時もそうです。必ずあるです。何処か戸を閉め忘れておる。昨日もずうっとその回らせて頂いておりましたら、お夢の中で、『地下室に電気が明々と点いとりますから、「誰かおるのか。誰か起きておるのか」と上から声を掛けたけれども返事がない。
 それで下りてみたら小さい椅子、そんな椅子は実際ないんですけども、こんな大きな応接間の様な椅子が、大きな椅子に文男先生と高橋さんとが抱き合う様にして眠っておるんです。「あらあんた達はここにおったのか」と言うて目が覚めた』お夢であった。是は文男先生と高橋さんの場合は、言うならば性格的にも全然違ったものを持っておる。だから、高橋さんの言わば信心と、文男先生の信心を一つにしたら素晴らしい、言うならば事であろう。また、素晴らしい御用も出来るだろう。
 また素晴らしい信心と云う事になるだろうとこう思うんです。所が眠ってると云う事だから、そう云うまあ昨日の御理解の様に、「天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」とこうそう云う様な所、開眼すると云うか、目を覚まさして頂く所から良いものが生まれて来る。世界中の氏子、天が下に他人と云う様な事と仰るが、そう云う遠大な事ではなくても、まずはね、内々がまず仲良うならねばいけんと。他人ではない者同志が仲が悪かったり、と言ったらこの御教えなんかは、根底から何にもならない事になる。
 覆される訳です私は是を思うんです。「天が下に他人と云う事はないのだから、喧嘩やらしてはいかんぞ仲良うして行けよ」と云う事だと思うんです「お互い親身なものを出し合って足りないものは、また有り余っておるものは足したり引いたりしながら、仲良うして行けよ」と云う事だと思うんです。それなのに内々ですら同じ一軒の屋根の下に住みながら、こじれておったり仲が悪かったりするならもうこんな御教えなんかは全然、もう根底からこの御教えをなさったって、言わば何にもならない事になるです。
 それには先ず自分の心から一切の者と和して行けれる、言わば和の心を頂く事になりそれがまた喜びを以て出来れると云う事。親身の者同志が言うたら争うたり仲が悪かったりする様な事ではいけません。私は合楽のまあ魅力と言うか。先日研ナオコというタレントがおりますね。何かおかしな顔をしている人だけれども昨日私はお食事の時に、高橋さんに「あの人は大体どこが魅力であんなに評判なんです。どこがええからあんなに人気があるのですか」と言うたら「チャーミングだからだ」とこう言うのです。
 いわゆる魅力的だと、どこが魅力的か私も分からんのだけれど、それから思うんですけれどもね、合楽の魅力は何処にあるだろうか。皆さんどう思うですか。合楽教会にもし魅力と云う物があるとするなら、また皆が「合楽合楽」と言う由縁は何処にあるだろう。と二画おかげが受けられると云う事も魅力でしょう。ご利益を受けられると云う事も魅力でしょう。ご利益が頂けると云う事。同時に御理解が魅力だと。是はまあ本当にお道の信心を判らしてもらう。
 いや本当に人間の幸せとは、幸福とはと言う事を真剣に考え出したら、本当に合楽で説かれておる御理解はもう大変な魅力を持つ物だと思うです。先日菊栄会の方達と一緒に、信心実習に参りましてからでしたが、綾部さん所の娘さんがあちらへ縁に付いとられます。初めはずっと「おかげの泉」を送ってもらうだけで、ただ蓄めるだけだった。所がもう最近は、夫婦で奪い合って読むぐらいに毎日読む。主人はお仕事に行かれる時には必ずポケットに入れて行くから、もうボロボロになってしまう。
 だから「もう他所へ持って行かずに、家で読んで下さい」と言うんですけれども、持って行って暇な時に読む。おかげで問題があっても問題にならん様になって来た「おかげの泉」が中心で言わばものを言うから、事を行じて行くからと云う様な話をしておりました。だから本気で夫婦の幸せを。本気で人間の幸福と云う物を本気で考えだしたら、御理解集、言わばここでの御理解と云うのは、そんなに素晴らしい魅力を持っておるものだと思うです。是は信心がなかっても。
 本気で人間の幸福とはと云う事を色々に考えて、金さえあれば健康でさえあればと、言うなら検討違いの事を思うておって。それでも人間の幸福と云う物には、程遠いもんだと云う事が判った時です。ならその人間の幸福の条件と云う物は、幸福の根本になる物はです。心だと云う事になった時にです。なら心がどうあったら人間が幸福になるのかと云う事は、いわゆるここで説かれる「和賀心」です。和賀心には人間の幸福の全てが頂けれると云うそこをです。
 言うならばある意味で微に入り細にわたって、日々説かれてあるのですから。又ある人は、合楽の魅力を、もう合楽に行って直感する事は、ご信者さん同志が非常に内々の様だと、家庭的だと云うのが、魅力らしいですね。ですから確かにそのご信者さん同志の中には確かに家庭的なものを感じます。けれどもたまたまお参りをして来る人達には、だからそれが冷たく見える訳です。ころ離れた様にあるエリート意識と云うですか。そのかてのけると言う事でもないでしょうけれども。
 それを一緒に包容して行くと云う様な度量がない合楽の人達は。合楽だけが一番良かてなごたる思とる。よそんともういかんごと、と云う様な物があるのじゃないでしょうか。そこでその人が、そこを辛抱して、本気で本心の玉を研くと云う事。和賀心を目指して信心をすると云う事になると、その人も何時の間にか、やはり家庭的になって行きよる。ですから、ただおかげだけを求めて来る人達は、なかなか合楽のご信者さんの中にすっすっと入って行けない、あんまり仲良かから。
 こっちはかてのかされとるごたる感じがすると云う様なです。ふうに言うです。それこそ天が下に他人と云う事は無いのだ。だから良い所の悪い所家庭的で、信者同志は言うならば親戚、いや場合には親戚以上の物を持ってお付き合いでもさしてもらう。たまたま横からポカッとは中々そこの中に入って行けない様な雰囲気すらある位だ。だからそう云う人達をも、包含出来る様になった時に、合楽の信心はもっと大きくなるだろうと、こう思うですね。ですからせめてです。
 合楽に御神縁を頂いて行く人達だけ位は、一つ他人行儀の事のない、言わば仲睦まじゅう信心を身に付けて行きたい。せめて自分の内々だけ位は、自分の家庭の中だけ位は。それを私は徹底して、それを次第に広げて行くと云う事がです。白いもなからなければ黒いもない黄ないもない。人種差別なんて言った様な物はない。そう云う差別的な物を信者同志が持ったりしたのでは、御神意に反すると思うんですね。
 先日竹内先生が、書いてくれと言ってたのを、持って来たんですが、此の様に色紙に書かせて頂いた。その色紙がたまたまよく思いよったら、教祖様の御教えであり、または三代様の御教えであり、現教主様の御教えになっておるので、ははあ是は私の信心も、一言言うてあげなけりゃいけないなと思って[成すと言え 成し得る条件恩恵の 無くば成し得ず 何一つとして。]と云う是は教主様の。三代金光様のお言葉として、「日々がさらで御座います」と。
 それから御神訓の「信心は日々の改まりが第一じゃ」と云う風に書かせて頂いた。是は、この前の御理解に申します様に、いかにおかげ頂こうと思うても、御恩恵に浴しておらなければ出来ない事だと云う今の教主様の御深慮ですね。力でおかげを頂こうと思うなら、力をまず受けなきゃならない。お金でお役に立ちたいと思うならば、やはりお金の恵みを受けなければならない。と云う訳ですその為にはです。そう云う恩恵を浴する事の為には、私共の心が日に日にさらでなからなければいけません。
 三代金光様が「日々がさらでございます」と、そのさらな心でなからなければ、恩恵をキャッチする事が出来んのです枯れた心では。そこでならさらな心になる事の為には、どう云う事になるかと云うと、日々が改まり第一としなければならない。改まった所だけがさらなものである。その更な心で御恩恵を浴するのである。その御恩恵を浴させて貰うから、おかげでなし得ると云う事になる。御用が出来ると云う事になるのです。それをまあひっくるめてです。
 やっぱり私が言うならば、天地日月の心になる事だとこう思うんです。それを私は紙に書かせて頂きました。「天地日月の心」と。そしてこう云う風に頂いた。『小さな事にこだわらぬ修行をさせて頂きましたら、大きな事にも動じないで済む心が出来て参りました』是が私が竹内先生に贈る言葉である。「小さな事にこだわらぬ修行をさせて頂き」修行です。気になってたまらん。腹の立ってたまらんイライラしてたまらん。それはどうかと言うと、小さな事にこだわっておるからです。
 だからそれを修行とさせて頂くと云う事が「天地日月の心」なんです、ある意味では。そう云う修行をさせて頂いておりましたら、何時の間にか大きな事にもです。どんな事が起こっても動じないで済む心が出来て来ておる自分に気が付く。是は自分自身の事。私もどちらかと云うと神経質で、非常に心の細い男ですけれども、ですからもう小さい事が気になって気になってたまらん。イライラして腹が立ってたまらん。それでもそれをですこだわってはならん。
 こだわらん修行をさせて頂いとりましたらと云うのがです。成り行きを大切に尊ばして頂いたと云う事。御の字を付けて御事柄として受けて来たと云う事。そう云う修行をさして頂いとりましたらです。さあどうしようかと目の前が真っ暗になる様な事が起こって参りましてもです。おかげで動じないで済む心が出来ておったのに、私自身が驚いておる。その事を私書いて差し上げて言おうと思っております。
 だから同じ屋根の下に住んでおりましても、親子でも夫婦でもです。お互いが許されないとか、是ばっかりは許せんとか、腹が立ってたまらんと云う様な事も、やっぱりありますけれども、そこを例えば「天地日月の心になる事」と仰るのですから、その修行をなさったらどうでしょうか。その修行をして行く内にです。愈々どの様な事が起きても動じないで済む心が出来て参ります。是は私の体験なんです。どげな事が起こったっちゃ驚かんで済む信心を頂こうと思うたのじゃないです。
 小さい事にこだわらんで済む修行をさせて頂いとりましたら、大きな事に動じんで済むおかげを頂いて来た。だから大きなおかげが受けられる様になったと云う事も言える訳です。どうか一つ皆さん「天が下に他人と云う事はなきものぞ」と云う是をです。ただああそうかなとそうだぞと教えられたり、あそうだなと判っただけじゃいけんのです。この御神訓の底にはです「だから仲良うして行ってくれよ」と黒もないぞ、黄なもないぞ、白もないぞ、人種差別なんかがあってはならないぞとと云う事だと思うんです。
 だからそれをもっともっと小さく言うと、自分の心の中であり自分の家庭であり、自分の頂いておる教会のことである。せめて自分の教会だけ位ではです。言うなら本当に親身の者どうしがです。ですから、高橋さんと文男先生じゃないですけれどもです。そりゃ目に余る様な事もお互いあろうけれども、そこを足らん者は出し合い、余っておるものは出し合いしながらです。しかもそこに開眼する。眠っとるのじゃない。そうだと目を覚まさして頂いてです。
 言うならば教会の事に取り組まして貰う。家の事に取り組ましてもらう。言うなら大きな世界中の言うなら、難儀にもそう云う心で取り組ませて頂くと云う事になるのじゃないですか。そこでです「小さい事にはこだわらず」とこう云う。だからこだわる所かです。却ってその事にお礼を言えれる心を作って行く事が信心だと思うのです。例えば大祭にどこの先生はもう、合楽の大祭のたんびに風ひきなさる。だから来んちゅう交通事情がこんな風だから、来んと言う先生もある訳なんです。
 例えば来うと思えば来れんはず、絶対に無いのだけれども、私はいっちょんこだわらん。こだわらん所か却ってその先生が来てもらわん方が、合楽の為には良いと思うてお礼を申し上げておる。だからこだわらんでいいでしょうが。だからああ云うおかげにもなって来る訳なんです。だから本当にこだわる様な事では愈々いけませんが、こだわらんで済むと云うだけの修行だけではなくて、実際がその事自体が神愛だと。
 その事自体が神様の御働きだ。と思うたらそのこだわっておった様な事にむしろ、反対にお礼が言えれる様な心の状態こそです。私愈々大きな事に動じんで済む力と徳が受けられる様になって来る。そこに大きなそう云う心で、大きな難儀に取り組んで行くと云う様なおかげ。今日は「天が下に他人と云う事はない」と云う事をです。
 なぜ皆が同胞であると云うかという意味で説いたのではなくて、今日はねこう云う御教えを下さると云う事はもう「世界中の皆が仲良うせよ」と言う意味なのだから。まずはなら世界中の者もさる事ながら、まず自分の家庭の中だけでも、自分の教会内だけでも教会に縁を頂いて来たら最後、もうその人は自分の身内の者だと思うてお互いが育て合うて行くと言う様なおかげを頂きたいと言う事を今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。